白鳥もまた鳥である
最近、ある人へのメールで、「悪評もまた評である」というようなことを書いた。これは死刑判決を受けたソクラテスが言うところの「悪法もまた法である」をもじったものだ。
しかし冷静に考えてみると、この言葉は実際のところ何も言っていないのではないかという気がしてきた。「悪評」を別の言葉に置き換えてみるとよくわかる。
「白鳥もまた鳥である」
あたりまえじゃないか。
「カミキリムシもまた虫である」
こんなことを得意げに言ったところでなんになるんだ。
もちろんソクラテスが言いたかったのはそんなことではない。「悪法もまた法」は、「だから?」という疑問と、それに対する明確な答えがなければ完結しない問題であり、「悪法もまた法」というだけで何か内容のあることを述べたつもりになっては困るということなのだろう。
「『建築物用地下水の採取の規制に関する法律』もまた法である」
それがなんだというのか。
「○○もまた○○である」には、悪法に殉じることで自らを人類の永遠の教師として完成させたソクラテスの権威に寄りかかって、「立派なことを語ったつもり」にさせてしまう何かがある。軽々しく使うことには大変な危険がひそんでいると実感した次第だ。
しかし一方でこういう場合もある。
「シマアジもまた鰺である。しかし魚の鰺ではなく鳥の シマアジもいる」
こうなるともうなにがなんだかわからない。